コラム

小学生のとき、兄の腕時計を全バラにしてしまった

2021.05.22


<STORY3>
その下請け工場でマフラーをつくりながらレースに出場していた樋渡は、2年ほど経ってレース活動に専念することになり、マフラーつくりからは離れることになった。

副業は一切やめて、正真正銘のプロライダーとしてモリワキレーシングからレースに出場することになったが、同時にテストライダーとして開発の仕事にも携わることになった。

元々小さいときから機械が大好きだった。6歳上のお兄さんが初めて腕時計を親に買ってもらったとき、当時、小学生だった樋渡はその腕時計をお兄さんに無断でバラバラに分解してしまったという。もちろん組み直すことなどできないのに、分解したいという気持ちがどうしても抑えられないほど機械に興味があったのだ。

中学のときも、機械好きの技術の先生が解体屋から拾ってきた50㏄のエンジンを分解する授業などをやってくれたこともあって、樋渡の機械好きはどんどん熱を帯びていった。

その機械好きが高じて、自動車整備の専門学校に入校し、2級整備士の免許を取り、クルマのディーラーで働くことになった。しかし、そこで樋渡が気づいたのは整備はものつくりではないということだった。クルマ自体は大好きだったが、整備をしていてもまったく楽しくなかった。だから機械とはまったく無関係だが、友人の工務店で家つくりのアルバイトをしたときはとても楽しかったのだという。

マシン開発の楽しさに目覚める

↑モリワキのオリジナルフレームに、ホンダの250㏄エンジンを搭載したZERO-Z250を駆る樋渡

レーシングマシンの開発は、直接、自分で何かを作ることではなかったが、その仕事が気に入り、どんどんのめり込んでいった。バイクをただ走らせるだけでなく、どういう特性で、どういう乗り方をするとどんな挙動が出るか、そのマシンの素性を探ろう、探ろうと考えながら常に走っていたという。

モリワキ時代は、2スト/4スト、250~1000cc、そしてGP500マシンまで実にさまざまなレーシングマシンに乗った。なかには、コンストラクターであるモリワキのオリジナルフレームのマシンも含まれ、開発の初期段階ではなかなか思ったように走ってくれないこともあった。それでも樋渡は、こういう挙動が出るなら違う乗り方をしたらどうだろうなど、常に細かく分析しながらバイクを走らせていた。そして、そうやって探りながら、考えながらマシンを走らせる開発の仕事が楽しくて仕方なかった。

スズキのワークスライダーになってからも、開発の仕事に携わった。さすがにメーカーだけに、開発スタッフもプロフェッショナルで、自分の仕上げたマシンに絶対の自信を持っている。とはいえ、樋渡はタイムアップのためにはここを変更したほうがいいと感じたら、それを理解してもらうために理詰めで開発スタッフに説明するように心がけていたそうだ。そして、自分の指摘通りに仕上がったマシンでタイムアップすることに喜びを感じていたという。

スズキ時代にこんなエピソードがある。前のテストで乗ったマシンに開発スタッフが変更を加えたのちにテストをして、走り終わった樋渡がこの回転域でこれくらい馬力が上がっているとスタッフに伝えたところ、まさにその通りの変更を加えていたスタッフはあまりの正確さに驚いたそうだ。

現在、マフラーを開発する際も、樋渡が実走テストで感じたパワー特性とシャシーダイナモのデータはほとんど同じだという。まさに「人間シャシーダイナモ」と呼べるような、研ぎ澄まされた分析能力が開発の仕事で培われ、現在のアールズ・ギアのものつくりをしっかりと支えているのである。