コラム

アルバイトでマフラーつくりに携わることに

2021.05.19


<STORY2>

生活費とレース費用を稼ぐ目的で、マフラー工場でアルバイトをすることになった樋渡だったが、初めは見習い扱いでその工場の主力商品だった手曲げマフラーの溶接や組み立てが主な仕事。アール・ズギアの代名詞である手曲げは社長の担当で、樋渡は一切やらせてもらえなかったという。

1年ほど経った時、レーシングライダーとしての樋渡に転機が訪れた。

その下請け工場に仕事を発注していたモリワキから鈴鹿8時間耐久レースに出場する予定だったライダーが、直前のレースで転倒して出場不能になり、またしても周りの友人や知り合いが、樋渡に自分が代わりに出場するとモリワキの社長に直談判しろと焚きつけた。

モリワキから鈴鹿8時間耐久レースに出場

あまりにも執拗にそう言う友人・知人に根負けした樋渡は、モリワキの社長に8耐に出させてほしいと直談判したところ、オーディションを行ってくれることになり、そこでも樋渡は持ち前の負けず嫌いさとレーシングライダーとしての非凡さを発揮。初めて乗る1000ccのレーシングマシンで見事に好タイムをマークして、モリワキから鈴鹿8耐に出場することになる。

初めて出場した1981年の鈴鹿8耐は19位でフィニッシュ。そして、このレースがきっかけで、その翌年に樋渡はライダーとしてモリワキに加入することになる。

なんとアルバイト先の社長が失踪……

モリワキに加入することになった同じ年、再び樋渡に大きな転機が訪れる。

アルバイト先の社長が突然、失踪してしまい、下請け先を失ってしまったモリワキは自社工場を建てることにし、樋渡はライダーとしてモリワキからレースに参戦するとともに、その工場でマフラーつくりを行うことになったのだ。

当時、樋渡が作っていたマフラーは、真っ黒いパイプを手曲げしたいわゆる直管マフラー。樋渡もそこで初めて手曲げを行うようになったが、フロントのエキパイに砂を詰めて曲げる工程は誰に教わったわけではなく、見よう見真似で覚えたもの。しかし、ほかに2人いた下請けの職人よりも、樋渡は圧倒的に手曲げするスピードが速かったという。それも、曲げるスピードをストップウォッチで計測して競っていたというのだから、マフラーつくりでも生来の負けず嫌いの真骨頂を発揮していたようだ。

とはいえ、当時は、メーカーの言われるままにマフラーを作っていただけで、まさか自分がマフラーメーカーになるとは露ほども思っていなかった。しかし、誰も曲げられないほどの太いパイプを軽々と、そして美しいアールで手曲げする技術は、確実にこのときに身に着けていたのであった。
(*掲載写真のマフラーはイメージ画像です)